いちご白書

アメリカでのスチューデントパワーの爆発は日本でも話題になった。長引くベトナム戦争に嫌気がさしていたアメリカでは、「いちご白書」1970で有名なコロンビア大学闘争1968や、非暴力学生調整委員会、ウエザーマン、ブラックパンサーにいたる学生運動の高揚があった。
※ベトナム戦争:1964年のトンキン湾事件以後アメリカ合衆国が大規模に介入し,1973年のパリ和平協定を経て 1975年のベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)の勝利によって終わった。

『いちご白書』(いちごはくしょ、原題:The Strawberry Statement )は、アメリカ人作家ジェームズ・クネン(James Simon Kunen)によるノンフィクションである。著者が19歳の時に書かれ、コロンビア大学での1966年から1968年までの体験、特に1968年の抗議行動(en)および学生抗議者による学部長事務所の占拠についての年代記となっている[1]。また同書を元に制作された映画は「イージー・ライダー」や「俺たちに明日はない」と並ぶ、アメリカン・ニューシネマの人気作品である。

『いちご白書』という題名はコロンビア大学の学部長ハーバート・ディーンの発言に由来する。ディーンは大学の運営についての学生の意見を、学生たちが苺の味が好きだと言うのと同じくらい重要さを持たないものとして見下した。

ディーンは事実が間違った形で引用されたとしばしば述べている。学内ラジオ放送局 WKCR-FM(英語版)による1988年のインタビューによれば、彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明抜きでのものなら、彼にとっては苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない、というのが彼の主張である。

クネンの著書を元に、1960年代の学生闘争を描いたフィクション映画が製作された。1970年6月15日に公開。カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。

主題歌はジョニ・ミッチェルが作詞作曲した「サークル・ゲーム」。バフィ・セント=メリーが1967年に発表したカバー・バージョンが映画に使われている。

松任谷由実(荒井由実)が1975年にバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」は、映画公開当時の松任谷自身の思い出を元にしている。同曲はオリコンチャート1位を記録し、ミリオン・ヒットとなった。

「『いちご白書』をもう一度」という1975年8月1日にフォーク・グループのバンバンがリリースした歌を聴くと思いだすのだが、当時は映画自体がナンパのような感じがして日本での政治闘争とはあまりマッチしていなかったような記憶がある。つまり学生生活のラブストーリーみたいな。

本作はノンフィクションを原作としており、学生運動の風景を描いた劇映画でばりばりのアメリカンニューシネマの風味が心地よいです。タイトルの『いちご白書』は「学生たちの主張など、いちご好きな学生が多数派かどうかと同じくらいに意味がないものだ」というような大学学長の言葉が由来だそうです。

今の時代に学生が団結して大学を封鎖したりなんてことは、もう日本では考えられないですが、当時は毎日が政治の季節だったですね。いつでもどこでも政治の話ばかり、今度はどこの集会に行こうとか、どの辺まで過激な闘争をやるのかとかそんな話ばかりでした。

映画はと言うと、大学のボート部に所属する青年が、学生運動をしている女子に出会い、その中に入っていく話です。と言っても、ばりばり議論をぶつからせ合うものでもないし、タッチとしては全体的に、淡い青春的な感じが色濃かったですね。その中で随所随所、学生運動の風景が描かれていて、熱気よりもけだるさがありました。みんなで集まって雑魚寝したりしてね。

本作の抗議運動のとっかかりとしては、予備役将校の学校を大学に設置するかどうかで揉めたのとベトナム戦争に対する反戦運動との絡みで盛り上がったようです。ただ、それはあくまでもひとつの契機なんですね。それ以外にも、いろいろと若者の怒りたいことが出てきたりして、一挙に学生運動として盛り上がったわけです。日米安保がどうの、ベトナム戦争がどうの、それを本当に本当に真剣に考えていた人たちもいたでしょうけれど、「なんか、ノリで」とか「まあ確かに今の世の中にはなんとなく不満もあるし」とか「なんか大人たちの言うことは信用できないし、てか単純にむかつかね? 警察とかちょーえらそうじゃん」とかそういう人たちもいっぱいいたのでしょう。現に本作の主人公も、別に大学に対して憤っている感じではないんです。ああ、みんなこんな感じなのかあというノリに巻かれているんですね。彼女が運動しているからってのもあるし。

恋人が運動家だから、みたいなのもおそらく当時は多かったのでしょう。自分としては興味はないけど、恋人が熱心で、興味ない風に振る舞って別れることになるのもあれだから一緒にやる、みたいな人もいたはずです。

そういう意味で言うと、『いちご白書』というタイトルは実に綺麗です。あっぱれな表現であるなあと思います。ウィキによると、当時の学長の発言の意図はこのようなものです。「彼」というのは学長のことです。
「学内ラジオ放送局 WKCR-FMによる1988年のインタビューによれば、彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明抜きでのものなら、彼にとっては苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない、というのが彼の主張である。」

これはねえ、教育過程を卒業してある程度経つと、「わかるなあ」なんですね。「大人は汚い!」みたいなことを10代の頃とか学生の頃って考えがちだと思いますけど、世の中のこととかなーんにも知らずに理想論をぶっていても、そりゃあ「いちごが好きかどうか」の話と一緒だよね、ってことです。「苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」の言わんとするところは要するに、「聞く価値がないんだよ」ってことですからね。「甘いよ」ってことでもありますね。

学生側にしても、大人になって振り返ったら甘酸っぱい思い出になったりするわけで、その意味でもこれはまさしく「いちご白書」です。

考えてみるに、10代や学生の世代って、一言で言うに「理想論の世代」だと思うんです。世間知らずだけれどいろんな成功物語なんかにはそれなりに触れてきて、一方で世の中のおかしな部分なんかも指摘できるくらいには目も肥えてきて、「世の中はこれじゃあ駄目だ! こうあるべきなんだ!」っていう理想論が生まれる。でも大人からすると、そんな理想はみーんな抱いてきたんだよと。それが理想だとわからない、世の中の複雑さがわからないうちは、悪いけど聞く価値がないんだよ、っていう。この辺のわかりあえなさ。

ただ、そうやっていなそうとする大人の側にも後ろめたさはある。どこかの地点で理想を捨てた自分を自覚するし、あるいはその理想を叶えられずにきた自分を弁護したい気持ちもある。大人になるってことは、言い訳がうまくなることでもあるんですね。

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